前の、あーとぴょんホームページでの日記続

自分で読み直してみて、多少、哲学っぽいところがあるなぁとおもう。くどいと、自分でもおもう。体験そのもの、存在そのものは、哲学や論理ではないんだけどなぁ。あとは言葉を超えていって、かんじてみてほしい。あなたの本質ズバリそのものを。だよね。


すぎと今ここ

☆2008年8月1日(金)

言葉もなく、サイレンスのまっただ中へ。。。

内なる中心に合わせ。。。

いざ、恐れもなく、深みにハマろう。。。

目覚めとともに。。。

☆2008年8月22日(金)

今日は、秋の気配も漂う涼しい1日になりそうです。

振り子のように、極端から極端へと動くことは、
ときには、エネルギッシュで、ダイナミックです。

そのように、動いてばかりだと、落ち着きもありません。
振り子は、いつかは、ピタっと、真ん中に止まります。
微動だにせず。

この、真ん中に止まる。ここに気づきだけがある。。。

たいていの人は、これに気づかずに、
また、振り子をふってしまって、いそがしいのかもしれない。
いそがしいとは、ただの逃げかもしれないよ。

さて、何から逃げてるんでしょう。。。

☆2008年9月26日(金)

観照。

究極的には、これが最後らしいです。
存在のできごとのなかで。。。

でも、大勢の人には、観照とはなんのことかわからず、
その方向へむかうことに、興味がないみたいですね。

何者かであるほうが、人気があるでしょう。
自分はこういう人。ある人はああいう人。
何か、ひとかどのものになるほうが、
なったほうが、人気がありますよね。

観照は、そういう意味でも、人気はないです。
なにものかが落ちたときに、観照はあらわれるんですもん。

今ここは、まったくのひとつ、まったくのひとりだと、
気づきが起こっているときでもあります。。。

☆2008年10月4日(土)

なんか、話すことがないというか。
なぁんか、語ることに、興味が、わいてこないわ。

言葉は、2元性。
肯定か否定か、男か女か、子供か大人か、
昼か夜か、明るいか暗いか、
何を語るにしても、
2元性を越えることはないし、
越えたものは、言葉では語れない。

言葉をあとにする、
マインドをあとにする。
真実とは、2元性を越える。
自己も他もなく、ただ在るだけ。
体験もなく、体験する人もいない。ただ在るだけ。

そういうことを、言葉でかたる。
そういう理解はある。。。

☆2008年10月10日(金)

「世界は幻だ」と気づきがあるポイントが、ある。
明らかな点そのものではなく、
過去の積み重ねそのものの、エゴとしてのあなたがいないときに、
実感、体感そのものから、あらわれてくる。

それ以前は、エゴは肉体に執着している。
思考の雲のマインドに執着している。
喜怒哀楽の感情に執着している。
だから、今のところ、「世界は現実」になっている。

肉体を非難する必要はない。
あなたは肉体ではないけれど、あなたは肉体の中にいる、
あるいは、後ろにいる。
あなたが肉体にいるかぎり、肉体の世話をする。

おなかがすいたら、ごはんをたべ、
からだがかゆければ、シャワーをあびる。
ねむくなったら、ねむる。

マインドを非難する必要はない。
マインドからは、言葉が出てくる。
言葉が必要なときは、あなたはマインドを使う。
必要ないときは、お休みすればいい。
マインドを主人にしてはいけない。
なぜなら、あなたはマインドではないから。

喜んだり、怒ったり、泣いたり、笑ったり。
そういったコロコロ変わる気分としての感情は、ただ表現されるもの。
これも、覚えておくといい。
あなたは、感情でもないのだと。。。

さてと、あなたは何者だろう。。。

☆2008年10月17日(金)

荘子の話だったと、おもう。

ある日、荘子が眠っているときに、こんな夢を見た。
それは、荘子が蝶(チョウ)になって、
花から花へと、ひらひら飛びまわったり、
花の蜜を食べたりして、蝶の一生を生きている夢だった。

その夢から目覚めたあと、
荘子は、こう言って泣いた。
「夢で荘子が蝶になったのか。
蝶が夢見て、いま荘子になっているのか。
いったい、どちらがほんとなのだろう。」と。

「胡蝶の夢」という荘子の説話として、有名らしいのだが、
私は、和尚の本から、この話を知った。

自分が蝶になった夢を見ているのか、
蝶が、今自分になっている夢を見ているのか。
蝶も夢なら、、、自分も夢。。。
夢でないのは、、、観照のみ。。。