OSHOのことば


客観芸術とは、

自分が何をしているかを、知る者によって、

何かを他の次元から、この世にもたらす者によって、

意識的に、創造されたものを意味する。

 

それは、ある形を意味する。

その形を見ているだけで、

あなたの中にも、形が生じる。

 

それは、歌だ。

その歌を歌うだけで、

あなたは、何かそれ以外のものに、マントラになる。

 

OSHO「私の愛するインド」168ページより


西洋社会は苦悩の下で、瞑想の知識がない下で、生きている。

それゆえ、彼らのすることは、何でもマインドから生じている。

マインドは喜びの源泉ではない。

それは苦悶を引き起こすだけで、

決して、エクスタシーを引き起こしはしない。マインドはあなたの地獄だ。

 

だから、もっと瞑想的になるように。

創造性を、瞑想性の二次的なものとなるようにしなさい。

すると、あなたは今までにない実存の状態を得る。

エクスタシーの実存の状態をだ。

エクスタシーから生じたものは何であれ、それも何らかの香りを持っている。

 

西洋では、おそらくグルジェフが、

芸術を客観芸術と主観芸術の二つに分けた唯一の人だ。

主観芸術とは、マインドの産物であり、苦悶から発したものだ。

客観芸術であるタージマハルやエローラ、アジャンタの石窟、

カジュラホの寺院は、瞑想的な人々から生じた。

愛から、沈黙から生じたものを、彼らは分かち合おうとした。

それは、彼らの世界に対する貢献だ。

 

西洋の芸術家は、何重もの重荷の下に生きた。

今こそ、西洋の芸術家に、

マインドを超えた、それ以上の何かがあるということを、

知らせなくてはならない。

最初に、その超えたところに至りなさい。

そうすれば、あなたは星を創造できる。

そして、それらの星は、あなたにとって大きな喜びとなるばかりでなく、

見る人々にとっても、大きな喜びとなる。

 

OSHO「私の愛するインド」188、189ページより


そして、もし薔薇(バラ)が目的をもつ必要がないなら、

どうして、私の絵に、目的がなければならないというのか?

それらは、実存的だ。

いかなる目的も、必要ではない。

 

OSHO「I Celebrate myself」(雑誌OSHOタイムズ30号)


一個の客観芸術の作品は、たんに見るだけのものではなく、

生きられるべきだ。

あなたは客観芸術を、いかに味わうかを知るべきだ。

あなたは、それに瞑想しなければならない。

 

OSHO「Glimpses of A Golden Future」


私は、私の人びとに、瞑想というのは、

ただたんに、沈黙していることではないということを、知ってもらいたい。

それは瞑想の一部でしかない。

 

最後に、それは創造的にならなければならない。

そして、あなたの内なる沈黙から、詩や絵が生じるとき、

それは、この世のものではない味わいを、持っている。

 

OSHO「The Miracle」